裁判員裁判制度導入の際、私は、私自身、メディア等でどのような議論がなされていたのかは、記憶にない。唯一記憶に残っているのが、榊原英資氏の「陪審員は最悪の制度、アメリカの真似をすればよいと思っている関係者が多すぎる。」という発言である。その裁判員裁判が、高裁で覆される事例が最近多くなっている。覆えされる理由は、量刑の判断方法に誤りがあり、結果として、量刑が重くなりすぎている、というものである。このような現状に対して、裁判員裁判をやめるべきであると言う意見、やめるべきではない、という意見の2通りの意見があるがここでは触れない。
 この稿では、なぜ、裁判員裁判の判断を、高裁が判断を見直す、と言う事態が起こるのか論じたい。

 結論から言えば、裁判員制度は、そもそも本質的に問題を抱えている制度であり、近年、高裁判決によって、裁判員裁判の判断が見直される理由は、裁判員裁判が抱える問題が表出したに過ぎないと考える。そして、その矛盾・問題とは、自由主義の観点からの矛盾・問題及び量刑の本質の観点からの矛盾・問題である。

 以下の法務省のHPにおける裁判員制度の説明からも明らかなように裁判員制度導入の趣旨は、 国民の視点、感覚を裁判の内容に反映させ、国民の司法に対する理解と信頼が深める、という点にある。

 「国民の皆さんが裁判に参加することによって,国民の皆さんの視点,感覚が,裁判の内容に反映されることになります。その結果,裁判が身近になり,国民の皆さんの司法に対する理解と信頼が深まることが期待されています。そして,国民の皆さんが,自分を取り巻く社会について考えることにつながり,より良い社会への第一歩となることが期待されています。」(http://www.moj.go.jp/keiji1/saibanin_seido_gaiyou01.htmlより引用)

 目的は、国民の私法に対する理解と信頼の向上である。しかし、目的のための手段として、国民を裁判に参加させ、国民の視点、感覚を裁判の内容に反映させる、という手段が選ばれた。そして、かかる目的達成のための手段を採用した結果、結果として、司法権を民主主義的に行使するという事態が生じているあるいは生じうるのは紛れもない事実であるように思う(なお、「司法制度改革の3つの柱」などにおいては、裁判員裁判について述べた項目の表題に国民的基盤の確立と銘打ってあり、民主主義的意義を意識させる言葉は用いられていない。)。

 しかし、そもそも、司法権とは、個人の自由権の砦という言葉に象徴されるように、本質的に自由主義的機関である。そして、自由主義の目的は、人権保障である。人権保障という考えには、多数決から少数者の人権を守るという考えも含まれている。つまり、多数決によっても、個人の権利の核心的部分は侵害することができない、という考えである。現に、民主主義と自由主義は、相反する可能性のある概念であることが、我が国の憲法学においては主張されてきた(政治学の中には、異なった意見もあるようである。)。
 
 そして、自由主義的機関であることから来る論理的な帰結であるが、司法権は、理性的に行使されなければならない権力であるという特徴がある。つまり、自由主義の最後の砦と言う言葉が示すように、多数決による意見=立法府が、感情的な決定を下すのを、理性の点から防止するという役割を、現行の憲法の下においては、司法権は担っているのである。

 しかし、裁判員裁判は、多数決によって司法権のうちの重要な部分である事実認定及び量刑を決定するという制度である。よって、裁判員による裁判は、以下の性質を有している。
 ① 多数意見によって、人権侵害の有無(事実認定)及び程度(量刑の程度)ことを許容する点、
 ② 理性によらずに、人権侵害の有無(事実認定)及び程度を決定することを許容する。
 上記2点において、裁判員裁判は、極めて非自由主義的に司法権が運用される危険性を有している制度である。この点に、自由主義の観点から見た裁判員裁判の問題点がある。

 現在の裁判員裁判の見直される原因は、根本的には、裁判員裁判の有する自由主義の観点からの問題にある。つまり、上記のように、裁判員裁判は、司法権を民主的に行使させる結果、非自由主義的に運用される危険があり、かかる危険が現実化したと見られる裁判員による裁判を、上級審が見直している、と捉えることができる。

 また、立法権と司法権の対立の構図が変化したともいえる。つまり、裁判員制度導入までの立法と司法の関係は、立法権対司法権であったのに対し、裁判員制度によって、立法権及び裁判員による第1審対上級審となっているとも言いうる。

 私は、裁判員裁判を自由主義の観点から正当化することは難しいと考える。仮に、裁判員裁判を自由主義の観点から正当化するには、従来の職業裁判官による裁判が、人権保障の観点から問題がある場合である。例えば、裁判官が、特定の宗教の信者のみから選ばれているといったケースであり、そのような場合には、裁判員制度は、自由主義的な意義をもち、自由主義的にも正当化できる。しかし、裁判員制度導入以前の裁判に、例にあげたような問題があった訳ではない。

 もっとも、裁判員裁判の抱える問題が具体的に明らかになったのが、大阪地裁のアスペルガー症候群に関する判決である。最も、批判されたのが、次の部分。

  「健全な社会常識という観点からは、いかに病気の影響があるとはいえ、十分な反省のないまま社会に復帰すれば、被告人の意に沿わない者に対して同様の犯行におよぶことが心配される。被告人の母や次姉が同居を断り、社会内でアスペルガー症候群に対応できる受け皿は何ら用意されておらず、許される限り長期間刑務所に収容することが社会秩序の維持にも資する」

 社会秩序の維持のために、許される限り長期間刑務所に許容するという判決文が職業裁判官によって起案されることは、現在の法大系、法曹養成システム及び裁判システムを採用している限り、ない。法曹は、個人的にはどのような思想をもっていようとも、基本的な人権保障及び自由主義の考え方は、司法試験の勉強を通じて身につけている。そして、社会秩序の維持のために、長期間刑務所に収容するという発想は、社会のために、個人に過度の犠牲を強いるという点で、極めて非自由主義的なのである。
なお、この考え方には、ナチスの社会に害をなす劣等な人間、劣等な民族(ユダヤ人に限らず、ジプシーや精神障害者もゲットーの収容対象になった。)は、ゲットーに閉じ込めるという極めて危険な思想と親和性がある。いずれも、我が国の、現在の憲法観及び自由主義とは全く持って相いれないものである。

 勿論、量刑には一般予防、特別予防の意義があり、特別予防の観点で量刑が決定される部分が有ることは確かである。しかし、稿を変えて論じるが、一般予防、特別予防は、量刑を決定される際に、重要視されるべき事情ではない。量刑とは、基本的には、あくまで、被告人の行為の責任を問うものなのである。

 百歩譲って、社会秩序の維持のために、長期間刑務所に収容するという発想で、大幅に量刑を決定することが是認されたとする。しかし、「許される限り」という一文を、判決文に加えることは、有り得ない。即ち、判決文に「許される限り」「被告人を長期間刑務所に収容することが」「社会秩序の維持にも資する」という一文が加わることによって、本来権力からの最後の砦であるはずの司法府が、可能な限り閉じ込めるという国家権力の態度を追認することを意味しているからである。

 この判決に関する国民(?)の一人の意見は次のとおりである。
 「大阪府内の男性は「一般的な感覚として妥当な内容だと思う。罪を犯した以上、それに応じた罰を受けるのは当然だ」と判決に共感を示し、「障害があるのは気の毒だが、だからといって周囲に迷惑をかけて良いわけではない」と述べた。」
 公権力の行使は、周囲に迷惑を掛けるな=公共の福祉という文脈で正当化される。周囲に迷惑を掛けるな、と言う理由で、数々の差別や人権侵害が行われてきたことは、歴史に照らして明らかである。周囲に迷惑を掛けるな、と言う論理で、権力者が横暴をしないかどうか、チェックするのが司法府である。上記の大阪地裁のアスペルガーの判決は、その司法府が、権力者が社会にとって害悪をなす奴を出来る限り塀の中に閉じ込めて排除したい、と言っているのを追認しているのである。
 これは、司法権の自己否定である。