裁判員裁判に対する法律実務家からの批判のうち、多いのが量刑に対する批判である。具体的には、
  ①量刑を決定すべき際に、考慮すべきではない事情を考慮している
  ②または考慮すべき事情のうち、ある事情を重く考慮しすぎている、という点である。なぜ、裁判員裁判が、法律実務家から批判されるのかについて、刑罰の本質および量刑の本質から論じる。

   刑罰の本質を巡っては、非常に難しい議論があるようであり、私は詳しくは分からない。しかし、私は、刑罰の本質は、現在の法体系の下においては、基本的には、行為に対する非難であると考えられる。

 次に、従来の法律実務において、どのように量刑が決定されてきたかについて論じる。
   原田國男氏の「量刑判断の実際」においては、実務において量刑を決定する際 「一般的傾向としていえることは、犯罪行為自体とそれに直接関係する犯情が最も重視され量刑の基本的な事情とされている。ついで単なる情状に関する事情、すなわち行為者の性格、年齢、境遇その他が考慮され、その際具体的な事案に則して、一般予防や特別予防の目的も検討される。」という指摘がある。

  私は、裁判官ではないが、おおむね上記の原田氏の指摘のとおり、①犯罪行為自体とそれに関係する犯情が、最も重視され、②ついで行為者の性格、年齢等の事情が考慮され、量刑が決定されていると考えている。
   
   つまり、被告人がアスペルガーであるとか、性格が悪いとか、被告人が反省しているという被告人自身の事情は、副次的に考慮される要因である。被告人が反省しているか等の、被告人自身に関する事情は、執行猶予がつくかどうかを、決定する事情ではない。懲役刑が1ヶ月程度、短くなるか、長くなるかを決定する要因に過ぎない。 
   
   このような、裁判員裁判を除いた実務の量刑の決定方法は、私の考える量刑の本質、すなわち、量刑とは行為に対する責任非難である、という考え方に、おおむね合致していると思う。

   そして、さらに重要なのは、特別予防・一般予防の考慮が、上記原田氏の記述によると、副次的な考慮要因である行為者の年齢等、単なる情状に関する事情を考慮する際に「具体的な事案に則して、一般予防や特別予防の目的も検討される。」 という表現にとどまっているということである。つまり、特別予防・一般予防は、副次的な考慮要因であり、しかも、考慮されるかどうかすら定かではない事情として位置づけられている、という点である。

   このように、特別予防・一般予防の視点を、量刑の決定の際に過度に取り組むことに、少なくとも裁判員裁判以前の従来の裁判実務は慎重な立場にあるといってよいと思う。 その理由は、ひとつには、一般予防・特別予防の観点を考慮しすぎることが、
社会にとって害悪をなす人間は、塀の中に閉じ込めておけ、という発想につながりやすく、ひいては、ナチスの発想につながりやすいので、危険だという考慮がある。
   
   つまり、特別予防とは、社会のためにならないから、塀の中にぶちこむ、という発想であり、この考え方を極論すると、ナチスのゲットー政策が正当化されてしまうのである。したがって、特別予防を過度に考慮することは、基本的には、従来の刑事裁判においては採用されていない。
   

  一方、職業裁判官以外の一般人が、被告人に対して抱く感情は、えてして、こんな悪い奴は、社会のためにならないから、塀の中に永久にぶちこんでしまえ、というものになりがちである。 大阪地裁のアスペルガーの判決では、この点が、もろに出ていたように思える。そして、前述のとおり、この考え方は、従来の戦後裁判実務においては、採用されていない考え方であり、非常に危険性を有する考え方である。かかる考え方によって、裁判を行うことは、量刑の本質に反し、また、基本的人権の尊重を定めた日本国憲法の立場を根本から覆す可能性を有しており、きわめて問題があるといわざるを得ない。よって、さすがに大阪高裁も大阪地裁のアスペルガーの判決については、見逃せず、量刑を変更したのである。

   このように、裁判員裁判は、従来の戦後の刑罰論および量刑論における刑罰、量刑の本質に反した考え方によって、量刑を決定してしまう可能性が高いという点において、きわめて問題がある制度であるといわざるを得ない。私としては、裁判員制度は、戦後の裁判制度そのものを崩壊させる危険性を有する制度であり、即刻廃止すべきと考える。

  そして、このような制度を導入したことに、司法制度改革の本当の狙いがある。つまり、司法制度改革とは、司法の自由化等を建前とした、司法権の弱体化を目指し、引いては、権力の集中を目指す制度なのである。 

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